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企業を守る就業規則とは、単なる形式的な「社内ルール集」ではなく、裁判になった際に会社の主張を裏付ける“法的防波堤”としての役割を果たすものである。実際に私が顧問を務める企業の中には、就業規則の一文があったおかげで訴訟に発展せずに済んだケースがあれば、その一文が欠けていたために不利な判断を受けた事例もある。ここでは、裁判事例を踏まえて、企業がリスクを回避するための就業規則設計のポイントを解説する。
第一に重要なのは「懲戒・解雇規定の明確化」である。例えば、ある中小企業で問題社員の無断欠勤が続いたために懲戒解雇を行ったが、就業規則には「無断欠勤を繰り返した場合」という曖昧な表現しかなかった。裁判では「回数」「期間」「改善指導の有無」が不明確であったため、懲戒解雇は無効とされた(東京地裁平成29年判決)。この事例から学ぶべきは、懲戒や解雇の事由を抽象的に記すのではなく、一定の行為を具体的に例示し、手続きの流れまで明示する必要があるという点である。私は顧問先の規程改定時に「懲戒事由の列挙」だけでなく、「指導・警告を経たうえでの懲戒発動」という段階的措置を明記するよう助言している。これにより、後日トラブルが発生しても、会社側が合理的なプロセスを踏んだことを証明しやすくなる。
次に挙げるのは「服務規律と私生活上の非違行為」についてである。SNSの投稿や副業など、業務外行為が企業イメージを損なう事例が増加している。過去の裁判では、飲食店従業員が勤務先を誹謗する投稿を行い懲戒解雇された事案で、就業規則に「業務外の行為であっても会社の信用を著しく損なった場合」という条文が明記されていたため、解雇が有効と判断された(大阪地裁平成30年判決)。一方、規定にその文言がなかった企業では、同様の行為でも懲戒権の濫用とされることがある。私は顧問先に対し、現代的リスクを踏まえた「SNS利用指針」「副業ルール」を就業規則の付属文書として整備することを提案している。特に医療機関や接客業では、患者・顧客との関係性に直接影響するため、企業イメージの毀損を未然に防ぐ取り組みが不可欠だ。
第三に、「労働時間とみなし労働制の運用」に関する規定もリスク管理上の要となる。みなし労働時間制を導入していたあるIT企業では、実態として上限を超える残業が常態化しており、労働者側が未払い残業代を請求した裁判で、就業規則上の条文が曖昧だったため、制度の適用が否定された(東京高裁令和2年判決)。就業規則に制度の趣旨・対象業務・労働時間の把握方法を明確に定めていなかったことが問題視されたのである。私は顧問先の制度設計支援において、労働基準監督署の審査を想定し、条文だけでなく「運用マニュアル」まで整備するよう指導している。ルールは“書くだけ”ではなく“使う”ことが前提でなければ意味がない。
また、「育児・介護・メンタルヘルス」に関する規定整備も、今後の訴訟リスク回避の観点から欠かせない。育児休業明けの不利益取扱いや、メンタル不調者への対応をめぐる裁判が増加している。たとえば、復職支援のプロセスが曖昧だった企業では「復職拒否が不当」と認定された事例がある(東京地裁令和元年判決)。私はこうしたリスクに備え、就業規則の中で「休職→主治医意見書提出→産業医判断→試し出勤→正式復職」というフローを明文化し、企業が一貫した判断基準を持てるようサポートしている。これは経営者にとっても「感情で判断しない仕組み」を作ることにつながる。
さらに見落とされがちなのが、「改定・周知手続き」に関する条文である。裁判では、内容の妥当性だけでなく、従業員への周知が適切に行われていたかが争点となる。メール配信のみでの周知を否定した判例もある。顧問先では、私は「社内掲示」「紙配布」「電子承諾」の三段階を組み合わせ、改定履歴を保存する運用を推奨している。これは単なる形式対応ではなく、後日“従業員が知らなかった”という主張を封じる実務上の防御策である。
これらの実務経験を通じて痛感するのは、「リスク回避型の就業規則」とは、裁判を意識して条文を“固く書く”ことではなく、“予見可能性”を高めることに尽きるという点だ。すなわち、社員にとって何が禁止で、どんな手順で処分や対応がなされるかが明確であるほど、トラブルは起きにくくなる。曖昧なルールは運用の余地を広げるが、その分だけ裁判所の解釈の余地も広がる。経営者が自社の理念や現場実態を踏まえ、社労士と共に「合理的で一貫性のある規程」を構築していくことこそが、最も現実的なリスク回避策である。
最後に、私の顧問先の一つで実際に発生したケースを紹介したい。ある中堅メーカーで、営業担当が顧客情報を持ち出して競合に転職した。会社は損害賠償を請求したが、就業規則には「秘密保持義務違反は懲戒解雇とする」とだけあり、損害賠償の具体的条項がなかった。裁判では「就業規則に損害賠償の範囲・金額基準の明示がない」として、一部しか認められなかった。この経験を踏まえ、私はすぐに同社の規程を見直し、「損害の範囲」「故意・重過失」「再就職制限条項」などを明文化。以降、他の顧問先でも同様の見直しを進めている。裁判事例は、過去のトラブルの記録であると同時に、将来の経営リスクを防ぐ教科書でもある。
就業規則は“守るための盾”であり、“戦うための証拠”でもある。リスク回避の視点をもって定期的に見直すことが、経営の安定を支える最良の投資と言えるだろう。
執筆:特定社会保険労務士 鈴木教大(社会保険労務士法人レクシード)